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駒を持ち、前に進める。頭の中で幾つもの展開を想定し、選択肢を潰していく。そうして狭めた可能性の最善と思える一手を選び取るのだ。盤の上に駒を配置すると、少し高く、それでいて落ち着いた声音が告げる。
「先生、それ三手先で詰みますよ」
驚きに顔を上げれば、やや眠たげな円い双眸がこちらを見つめていた。盤上を見渡し、見落としがないかを探る。現在の状況から派生し得る選択肢を考える。その間にも日に焼けていない白い手が、駒を摘み上げて軽やかに動かしていく。配置を見た瞬間、状況を理解し切れないままであるが本能的に嫌な予感がした。これは少しまずい。遊戯盤を眺めながら教師は唸る。
指揮の練習にと貰った戦略型の盤上遊戯であるが、一人で駒を動かしていたところに声をかけてきたのがリンハルトであった。断られるつもりで相手に誘えば、何の気まぐれか彼はあっさりと了承してくれ今に至るという具合である。
実際の戦闘指揮とは勝手が全く違うとはいえ、戦場で指揮を執って指示を出している身分として、指揮している生徒にあっさりと負けてしまうのはいかがなものか。状況としてはあまり良くないが、打開の手を探りつつ駒を進める。
伸びてきた滑らかな指先が駒を掴み、さっと動かしていく様子は、まるでこちらの動きが分かっているかのように思えて、少し怖い。盤の上に置かれた駒、そして全ての駒の配置を見た時、先程の彼の言葉をようやく理解した。
ここからどう駒を動かしても、彼は軽やかに駒を動かして、じっとこちらの様子を窺いながらこう言うのだろう。『ほら』と。なんだかそれは実に釈然としない気持ちになる。有り体に言うと悔しいのだ。
今まさに辿り着こうとしている一つの結末。それを否定し、破却する。大樹から伸びる枝葉のように大きく広がった可能性世界線を遡り、僅かな時を巻き戻す。
その選択をしたのは大人げない悔しさもあったのだが、彼と盤上遊戯をするという二度とないかもしれない時間をもう少し長く楽しみたかったからだ。
止まっていた時が動き出す。盤上にある駒達は、数手前の状況を表している。頭の中で更に広がった可能性の枝葉から先がないものを剪定し、これと思う選択肢を選び取る。瞬間、円い目が微かに見開かれた。
「へえ……先生もそういう選択肢、取るんですね」
返ってきたのは、先程とは明らかに違う反応であった。告げながら、伸びてきた手が駒を取り、やや間を置いてから再び盤上に乗せる。ここからは小細工なしの純粋な読み合いだ。幾つもの展開を描き、潰し、最善手を探る。そうして選び取った選択を基に、駒を進めるのだ。互いの手の内を探りながら、駒を動かし攻め守る。さて次はどんな手を打ってくるか、考えながら駒を置いた瞬間、告げられたのはまるで覚めない悪夢のような一言であった。
「先生、それ三手先で詰みますよ」
同じ声音、同じ声色、同じ調子、同じ言葉。何もかもが同じで、違うのは盤面の状況くらいだ。頭の中は卓を返したように混沌としていて、考えが定まらない。どうしたんですかと不思議そうに問う声に、なんでもないと首を振る。そうして進めた駒から迎えた結末は、想像通りのものであった。
「ほら」
手詰まりだった。完璧なまでの負け戦である。それも二敗だ。
「指揮は君がした方が良いんじゃないか」
半分は負け惜しみ、もう半分は真剣に告げたその一言に、リンハルトは盛大に溜息を吐いた。何を言っているんだろうこの人は、言葉にせずとも視線で分かる。
「盤上遊戯は簡単ですよ。駒の役割がはっきりしていて、後は相手の思考の癖に合わせて嫌がる手を選べばいいんですから」
そういうのはクロードが一番上手いと思いますよ、と彼は続ける。
「でも、実戦は違う。ぶつけた兵はどちらが勝つか分からないし、それに──戦場では、命が懸かってる。僕みたいにさっさと逃げ出す人もいれば、死ぬまで戦い続ける人もいる。僕には、その人の気持ちが分からない」
だから指揮は先生が執った方が良いんですよ。どうも慰めのように聞こえなくもないが、これ以上くだを巻くのもみっともないのでぐっと堪える。ひとまずこの話題は終わったと感じたのだろう、途端にリンハルトの瞳が強く輝いた。
「ところで、一度先生の思考が明らかに切り替わった手があったんですけれど、どうしても理解ができなくて。考えられるとしたら……時間を巻き戻したりとか」
ぎくりと体が強張る。何となく、自分に貸し与えられたこの力は知られない方が良い気がした。好奇心を煮詰めて固めたような双眸がじっとこちらを見つめている。
「まあ、今はいいや。でも……いつか教えて下さいね、先生」
逃す気のない宣言を残してリンハルトは去っていく。食えない男だ、と思った。