この世の果てまで

FGOベディぐだ

「ベディ」
 眠れぬ声音が彼を呼んだ。夜はすっかりと更けており、明かりを落とされた廊下は薄暗い。こんな時間に起きているとは珍しい、思惟しながらベディヴィエールは振り向いた。
「どうされましたか?」
 その問いに、立香はやや躊躇いを見せた。琥珀色の瞳は、落ち着きなくゆっくりと右往左往している。いつもは元気に弾んでいる眉をしょんぼりと下げながら、彼女はおずおずと口を開いた。
「何かが起きるのはいつも年の瀬だったから、少し怖くて……」
 成程。今年も何かが起きやしないかと、彼女は不安に思っている訳だ。
 時間神殿で迎えた永訣。ようやく平穏が訪れようとしていたところで、突如下ろされた空想の根。一年の終わりを迎えようとするこの時期は、彼女に激動を齎してきた。こうも重なってしまうと、今年も──と考えてしまうのも無理はない。何も起きないと、断言することはできなかった。いつでも変化は唐突で、心の準備をする間もなく変化は立香を飲み込み立ち上がれと促す。
「どうでしょう、今年は何事もなく過ごせるとよいのですが」
 何が起きるのか、それとも何も起きないのか。それは誰にも分からないことだ。しかし、ただ一つだけ明言できることがある。
「──何が起きようとも、私は貴女の剣であり盾となりましょう」
 それだけは、揺るぎないものであった。この美しい流星のような煌めきを守ることができるのであれば、命すらも惜しくはなかった。
「もう何も起こって欲しくないな……」
 弱い声音が、ぽつりと零す。彼女は一度たりとも、この人理を巡る旅に対して弱音を零したことはなかった。逃げ出したって、投げ出したって許されるのだ。世界などというものを背負うには、人の肩は小さすぎる。
 ただ、立香は必死に前へと進み続ける。どれ程の現実が彼女を打ちのめそうとも、決して諦めることなく歩き続けた。そしてこれからも進み続けるのだろう。
「戦い続けることが嫌になりましたか?」
 その問いに対し、立香は小さく首を振る。
「私も曲がりなりにも人理の守り手ですので、たとえ貴女が嫌だと言おうとも立ち上がれと言うのでしょう。貴女なくしてこの道は成し得ない」
 英霊と呼ばれる存在は、人理を守るために存在する。だからこそ、人類最後のマスターとなってしまった彼女を失う訳にはいかない。故に、どれだけ辛く苦しい道であろうとも、我々は進めと言う。それしか手段がないからだ。
「うん、私達の世界を取り戻すためにも頑張らないと! だから、ベディにも力を貸して欲しい」
 そう言って朗らかに笑う姿を眩しく、同時に恐ろしくも思う。藤丸立香という名の、類稀なる善性。『底抜けのお人好し』などという言葉では収まらない、まるでそうすべきと定められた機械であるかのような『善き人』なのである。
 だからこそ、彼女は自分が死ぬかもしれない状況であろうとも、他人のために身を躍らせることができる。それは自己犠牲の精神でも何でもなく、ただそうしたかったからという理由でいとも簡単に行われる行為である。
 それは人としてはとても美しい美徳であるのかもしれないが、生物としては欠陥も甚だしい。人を救うが自分は救わぬでは、いつか精神が尽きてしまう。
「もしも、いつか──全て捨てて逃げ出したいと思ったなら、言ってください」
 傅き、その小さな手を取る。柔らかく、温かな手のひらだった。まっすぐに見つめれば、立香は丸い目を見開いて更に大きくしながらじっとこちらを見つめていた。水面のような瞳が、光を照り返してゆらりと揺らめく。
「そんなこと、あるはずがないよ」
「ええ。ですから、『もしも』の話です」
 反射的に発する立香に、ベディヴィエールは頷いてみせる。そうして、言葉の続きを繋ぐのだ。
「もしも、貴女が逃げ出したいと言うのなら、私はこの手を取って逃げましょう」
 どんな存在が立ち向かってこようと、たとえ人理が燃え尽きようとも。この手を取ってどこまでも走り続けよう。道を切り開こう。
「ありがとう……ベディは優しいね」
 ふふと笑みを零す立香にベディヴィエールは首を振る。真に優しいのであれば、逃避などという易しい行為を許すべくもない。ただ、自分はどこまでも失うことに対して臆病なだけなのだ。
 瞑目するその眼裏には、在りし日の夕焼けが残り続けている。