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修道院の夜は別の顔を持っている。昼間の喧騒は嘘のように人の姿は消え、ただ晦冥だけが広がっているのだ。陽が落ちた後の少し冷えた空気も相まって、よく知った道程であるというのに、全く違う場所であるかのように感じてしまう。
士官学校には名門貴族の者も多く集う。彼らの身に何かが起きてはならないと、修道院内を見回るのは教員達の職務の一つでもあった。勿論警備は絶やすことなく行っており、衛兵達も定期的に巡回を行っている。それでも教師の目が必要になるのは、生徒達の素行を見守るという部分が大きい。
灯された火が薄ぼんやりと足元を照らす。開いた扉の先は見通すことができない暗闇が広がっている。臆することなく歩を進め、ベレスは手提灯を高く持ち上げた。自分の他に何もいないことを確認し、更に奥へと足を踏み入れる。ひっそりと静まり返る廊下を進んでいると、ベレスの目は扉の隙間から微かに漏れる光を捉えた。ともすれば見落としてしまいそうなごく淡いそれは、図書室から発されているようだった。
気配を殺し、足音を忍ばせてその扉の前まで辿り着くと、確かな気配が息衝いている。それが何であるかを確かめるために、ベレスは意を決して扉を開いた。
「……ディミトリ?」
その姿には覚えがある。部屋の中でただ一つ灯された燭台の仄かな灯りの中に彼はいた。その頼りない光は、読みかけの本の頁と透き通った金髪を夕暮れのような色で照らしている。その光景に、どうしてか胸を締め付けるような寂寥を覚えた。彼がどこか遠くへと行ってしまうような気がしたのだ。
「ああ、先生か」
呟き、ディミトリは開いていた本を閉じると振り返る。涼やかな双眸がこちらを捉えた。その姿はいつもの彼で、どうして自分はあのような感情を抱いたのだろうとベレスは内心首を傾げる。
「こんな時間まで勉強を?」
「ああ、いや……少し、寝付けなくて」
答える声はやや歯切れ悪い。彼はよく頭痛に苛まれており、従者であるドゥドゥーからも睡眠を取るよう窘められている姿をよく目にする。しかし、ディミトリがその提言を受け入れている様子はあまり見られない。それはもしかして、眠らないのではなく『眠れない』からなのだろうかと思い至る。
横になっても目が冴えてしまうのなら、その時間を使って何かを為そうとするのは実に彼らしい。それが慢性化してしまって、眠ることができなくなってしまったのだろうか。自分に何かできることはないだろうかと考える。彼の力になりたかった。教師として慮っていることもあるが、夜毎一人まんじりともせず明かすことは、とても孤独で寂しいことではないかと思えたのだ。
「ディミトリ、先生と悪いことをしよう」
気の抜けた声と共に、切れ長の目が瞠られて円くなる。その変化が実に面白く、可愛らしいと思ってしまう。戸惑いを隠し切れないディミトリの手を取り、ベレスはできる限り遠くまで見渡すことができるように手提灯を高く掲げて歩き出した。硝子の中で火がちりちりと燃え、長く伸びた二つの影が揺れていた。
慎重に階段を降り、辿り着いたのは食堂である。ディミトリを着席させ、幾つか燭台に火を灯すと、ベレスは調理場へと向かっていく。棚の中をごそごそと探っていると、まるで夜盗のようだと思ってしまう。夜盗を取り締まる立場である自分がそうしているのだから、おかしいものだと笑みを零した。でも今は、自分は先生ではなく悪い子なのだと開き直り、小鍋に注いだ牛乳を火にかける。
沸騰する前に火から降ろしたそれを杯に注ぐ。砂糖を詰めた容器と共に盆に乗せると、歩く度に波打つそれを零さぬように運んで、自分とディミトリの前に杯を置いた。そうして、匙いっぱいの砂糖を掬い上げて白い水面に落とすと、匙で掻き混ぜて溶かしていく。
「眠れない夜は、こうして甘い飲み物を作ってくれたんだ」
底のざらりとした感触はやがて溶けて消えていく。砂糖の量は作ってくれた人の豪快さ故のものであった。ひどく甘いと思うのだが、今はその甘さが心地良い。
「成程、これは確かに『悪いこと』だな」
その口元を綻ばせながら、ディミトリは温かなそれに口を付ける。深夜に甘い甘い砂糖を口にする行為は、そういうことを気にする女性からすれば卒倒ものだろう。だが、その特別感こそが嬉しくて、寂しい夜の孤独を和していくのだ。
思い出に惹かれたのか、睡魔が手をこまねいてうとりうとりとベレスを誘う。重たげに沈んでいく瞼を見つめながら、ディミトリは空になったベレスの杯を引き取った。
「片付けはやっておくから、戻って寝るといい。おやすみ……ありがとう、先生」
頷き、ゆるゆると歩き出すベレスを見送って、ディミトリは笑みを浮かべて杯を傾ける。この中身はとても温かくて、優しくて──きっと、甘いのだ。