日曜日、晴天。

オリジナル

いつかやるべきことを果たしたら誰の記憶にも残らず忘れ去られるようにこの世から消えたいなぁと常々思っているのですが、いざそうして死に臨んだ時、まだ生きていたいなぁと思うのならその時はまた生き直してもいいかなぁと思っているという話


「はい、では鍵をお預かり致します」
 その言葉に私は長らく使い込んだ鍵を渡す。他人の城で一国一城の主として君臨していた私は、呆気なく住所不定の不審者となった。そう、私は次に住まうべき住居を持っていないのである。いわゆるホームレスというやつだ。
 家財は全て処分した。買うのに金がかかれば捨てるにも金がかかる奴であったが、手のかかる私の暮らしを支えてくれた戦友達だ。がらんどうになった部屋を見て、ほんのりとした寂しさと全てなくなった清々しさが同居した不思議な感情を抱いたものだった。この部屋に越してきた時はごく少数の家財と段ボールだけであったのに、いつの間にか随分と物が増えていて過ごした年月の長さを感じる。
 身一つで──嘘だ、へろへろになった帆布のトートバッグ一つを提げて私は外へ出た。クレジットカードもキャッシュカードも解約してしまったので、今この鞄の中には一般的な会社員の年収ほどの現金が詰め込まれている。不要になったカードをパキポキと折るのは何だか悪いことをしているかのようで楽しかった。この鞄の良いところは、不要になったらごみ箱にすぐ捨てられるところにある。まさかこんなくたびれた袋の中に大金が詰め込まれているなどとは誰も考えないだろうが、万が一盗まれたとしてもそれはそれで良いと思った。元より捨てるつもりの金ならば、誰かに活用された方がよっぽどましだ。
 寄付でもすることが一番有効な使い道なのだろう。しかし、私は誰かにとっての『善人』になるつもりなど毛頭なかったのだ。誰にとっての善でも悪でもなく、ただ凡庸に生き凡庸に死ぬ。有り体に言えば誰にとっても『どうでもいい人』であれば誰も私を記憶しない。そうして私は私という存在を消してしまいたいのだ。
 墓に入るなど以ての外だ。私の存在が毎年誰かを呼び付けるなど、質の悪い悪夢や地縛霊のようではないか。勿論、忘れられるのは悲しい、死者と繋がることができる場所が欲しい、といった寄る辺を求める人が多くいるのも知っている。
 だからこそ、私は死に方を選ぶ必要があったのだ。
 誰にも知られずたった一人、私という個を葬り去る方法で。そのために、私は券売機の一番端にあるボタンを押して切符を買う。青春などとうに過ぎた身で十八きっぷを買うことは何となく憚られた。それに、元より旅費を気にするような旅ではないのだ。基幹駅まで出る方がスムーズに遠くまで行けることは分かっていたが、あえてそこを通り越して在来線を乗り継いでいく。
 目的はあってないような旅だった。目標ははっきりとしているのだが、それまでの道程は全く決まっていない。路線検索アプリがあればまだもう少し計画性のようなものを持てたのかもしれないが、スマートフォンは既に解約してしまった後だ。適当な駅で買ったそこそこ美味しい弁当を食べながら、私は広義で言う迷子なのかもしれないと考える。今まで最新デバイスによって紛らわされていた私の退屈が、ここぞとばかりに牙を剥いて襲いかかってきた。
 ぼんやりと外を眺め退屈と戦い、乗り継いだ電車がこれ以上先に進めなくなってようやく私は電車を降りた。名前も場所も知らない駅である。とっぷりと日は暮れており、どうしたものかと無計画な自分を少し呪う。こんな時はネットカフェに世話になってきたものだが、ネットカフェを利用するには身分証が必要なのだ。住所不定無職に身分を証明などできようもない。こういう時、私は今まで積み重ねてきた個──つまり身分というものに守られてきたのだと感じる。
 ホテルやカラオケ、身分証がなくても取れる選択肢は幾つもあった。ただ、自分の名前や連絡先を書き残す行為に対して、私はどうしても抵抗があったのだ。書き記した情報を確かめる術を相手は持たない、分かってはいるがそこにいた証を残す行為が許容できなくて、私はのそのそと公園へ向かった。
 何かが吹っ切れてしまったのか、私はわくわくと胸を高鳴らせながら初めての野宿に興じることに決めたのである。失うものなど何もないという思いが、私を前代未聞の凶行に駆り立てていた。殺人犯にでもなったような気持ちで、私は憩いの場として用いられているであろうベンチをベッドとして使用したのだった。
 そうして迎えた目覚めは実に穏やかであった。昇る日の眩さに目を開けると、周囲は昨日と変わらぬままで、この国の治安がいかに保たれているのかを実感する。それと同時にあちらこちらで痛みを訴える自分の体に、やはり寝具とは大事であるのだと痛感させられた。重い体とは対照的に気持ちは晴れやかで、私はまるで地元民のような足取りで近くに見えた銭湯へと向かう。顔も知らぬ人々と仲良く一番風呂を分け合って、私は再び電車へと乗り込んだ。
 昨日と同じく切符を買っては電車を乗り継いで、ふと買い物があることを思い出してホームセンターへ立ち寄りロープを買った。それからいくつか電車を乗り換え、ようやく私は自分の意思で電車を降りた。
 私が辿り着いた結論は、実に陳腐で単純なものである。
 看板に連ねられた美辞麗句を草と共に掻き分ける。そこに電話をかけたとして、私が彼らを困らせはすれども、彼らが私を助けてくれることはないのだろう。彼らが殺しの技術を持っていて、死体を隠蔽できるルートがあるなら別であるが。彼らは殺す人ではなく生かす人であり、そこに私が電話をかけるのは筋違いというものだろう──とかけるつもりのない電話に思いを馳せつつ進んでいく。
 木々の海を進んでいくと、太い幹に寄りかかって死んでいる男女の姿が目に入った。肉が腐り落ち、所々骨が剥き出しになった死体の前には農薬のボトルが転がっており、悶え苦しみ必死に胸を掻きむしっていたかのような形で時を止めてしまったその姿に、私は少し前に見た看板を思い出していた。
 生きることが義務であるならば、死は義務を果たした者に与えられる権利なのだろうか。義務を果たさず権利を得ようとしたから、この人達は制裁を与えられたのだろうか。ならば、私も苦しみながら死ぬことになるのだろう。
 死体の隣で事を成すのは着替えを見られているかのような恥ずかしさと気まずさがあり、私は死体が見えなくなるまで歩くとそこを終の場所に定めた。
 先程見た二つの死体は私に一つの安心を与えてくれた。骨が剥き出しになるほど損傷してしまったそれは、衣服を見なければどちらが男か女か見分けが付かなかっただろう。つまり、そんな状態になってもこの場所に残され続けているということだ。誰にも干渉される事なく、私は私の形を無くすことができるのだ。
 人間はドアノブでも首を吊ることができるらしい。残念ながらドアノブのようなものは見当たらなかったので、大きく隆起した根に足をかけて木に登り、太い枝にロープを括り付ける。『いかにも』な形に結ばれた輪に非現実的な感覚があったものの、手にした縄の感触がすぐさま現実に引き戻してきて脳が混乱する。
 特に生きることに絶望した訳ではないがやりたいこともない。やり残したこともない。平凡で、凡庸で、それなりに生きてきた人生だった。太宰の『グッド・バイ』を思い出しながらロープの輪に首を通すと、私は勢い良く幹を蹴って風に吹かれた木の葉が散っていくかのように宙を舞った。
 瞬間、連続写真を見せられているかのようにひどく世界がスローモーションに映った。途端に私の体は重力に支配され、視界が一気に切り替わる。息つく間もなく強烈な力で首を締め上げられ、かっと頭に血が昇る。そうしていよいよ意識が消失するその時、私はひどい破裂音を聞いた気がした。



 目を開ける。美しい青空があった。
 それは今まで見た中でも一番綺麗な空で、写真に収めたいと思うほどだった。ああ、スマートフォンがないのが悔やまれる。そう思って、ふと抱く違和感。
 生きている。ひどく頭がぼんやりとしていて、全身が痛い。そこでようやく私は自分が地面に倒れていることに気が付いた。縄のかかった首を動かして周囲を見れば、中ほどでばっきりと折れてしまった木の無惨な姿。鬱蒼と茂っていた木々の中で空が見えたのは、覆っていたものがなくなってしまったかららしい。
 身を起こして覗いてみれば、その内側はすっかりと朽ちておりスカスカの状態であった。そんな状態ではこの重い身を支えられるはずもない。私の体には骨と、皮と、たっぷりの身が詰まっている。この身の重さは、欲望の重みである。
 私は己の首にかかったロープを外して投げ捨てると、落ちていたへろへろのトートバッグを拾って歩き出す。あの美しい空をこの手に収めたいという煮え滾る執念のような希望が胸にあった。木々の海を抜けて暫く進み、見えた店に住所不定無職の私は臆することなく飛び込んで、意気揚々と告げた。
「すみません、部屋を探したいんですけど」