終末、何食べる?

オリジナル

「私」も「柚木さん」も性別すら決まってないし柚木さんに至っては姓か名かも決まってないしゆずきさんなのかゆのきさんなのかすら決まっていない


「明日世界が終わるんだって」
 トーストを齧りながら柚木さんが言った。こんがりと焼けたきつね色の上で、白いバターが溶けて広がっていく。どんな料理であろうとも、バターは惜しまず使うのが私のこだわりだ。
「そう」
 適当な返事をしながら、私はソーセージにフォークを刺す。元々は頂き物として我が家にやってきた物だったのだが、ピリッとしたスパイスの絶妙な刺激をたいそう私が気に入り、今や自ら取り寄せるほどである。なんと言ってもオリーブのピクルスとの相性が良いのだ。
 空になったグラスにフルーツティーを注ぎ、飲むかと聞けば頷いたので柚木さんのグラスにも注ぐ。興味本位で作ったフルーツティーであったが、一口飲んだ柚木さんが「これ好き」と言ってから、私は毎朝せっせとフルーツに砂糖を絡めては紅茶を淹れている。ポットに入れるフルーツと茶葉はその日の私の気分だ。
 点けっ放しのテレビからは朝の情報番組の音がする。次々と流れていくこの世界の情勢を流し見ながら、私達はカトラリーが立てる微かな音と共に朝を過ごしている。騒がしくも静謐な、私達二人の世界だ。
「じゃ、行ってくる」
 仕事着に袖を通した柚木さんが、可燃ゴミの袋を片手に声をかけてくれる。私は洗いかけの皿をそのままに、いそいそとタオルで手を拭いて玄関に向かう足を早めた。
「晩ごはん、何か食べたいものある?」
 柚木さんは、んーと短く唸ってから
「和食がいい」
 と言ったので、私は分かったと頷いてみせる。
「行ってらっしゃい」
 手を振り柚木さんを見送って、皿洗いの続きに取りかかった。そうして部屋の中を掃除して、一息ついたところで洗濯が終わったので、日が高くなる前に形を整えながら干していく。
 外はやわらかな陽光に包まれてぽかぽかとしていて、明日世界が終わってしまうだなんて嘘みたいだ。朝に流し見たニュースの内容はそよ風のように通り過ぎて行き、頭の中には全く残っていない。案外明日も変わらない日が続いているのかもしれないと思いながら、私は今晩の献立を考えていた。
 お料理は好きなので専ら食事の準備は私が行っているが、漬物は柚木さんの担当だ。私は柚木さんが作るオリーブのピクルスがとても大好きで、以前に作り方を聞いてみたことがある。返ってきたのは勘と目分量という答えで、一度真似て作ってみたものの、どうにもしっくり来ない味になってしまった。柚木さんが作ると、実に舌に馴染む味になる。
 私は柚木さんが作るぬか漬けも好きだ。手のひらの菌だとか、体温だとか聞くけれど、柚木さんが漬けた漬物は実に私好みの味なのだ。漬物の神様に愛されているのかもしれない。この間漬けてくれたのがそろそろ食べ頃なはずだから、今晩の箸休めにするとしよう。
 べこり、と音を立てて開いた扉の先には小さなタッパー。蓋を開けると、芳醇な味噌の香りが立ち上る。骨を取って塩を振り、水気を拭き取って味噌床へ。そうして漬け込んだ鰆は良い具合に仕上がっている。決まりだ。今夜はこれを焼く。
 思い描いた献立の、足りないパーツを揃えに外へと出た。あれやこれやと買いながら、今日は鶏肉にすると決めていたのに、うっかり豚肉まで買ってしまったのは春の陽気に当てられたのかもしれない。
 いんげん、ごぼう、にんじんを柔らかくなるまで出汁で炊いて、開いた鶏肉でくるりと巻いて糸で縛って焼いていく。砂糖と醤油、酒とみりん、野菜を炊いた出汁を匙ですくってフライパンの中へ。じゅうじゅうと肉が焼ける音と、煮詰まっていくたれが弾ける音。幸せの音とはこういう音なのかもしれないと、私はいつも思うのだ。
 小松菜と厚揚げを切って雪平鍋に並べて出汁で炊いていく。酒、みりん、醤油、すり下ろした生姜を少し入れるのがポイントだ。同じ調味料なのにフライパンからは香ばしい匂いが漂い、鍋からはどこかほっとする香りが漂ってくるのが不思議だ。くつくつと煮える音が増えて、私は鼻歌を歌いながら味噌を落とした鰆をグリルに並べて。ぱちぱちと爆ぜた脂が焦げる音を聞きながら、リズム良く菜の花を刻んでいく。
 松山あげと人参を水の中に入れて火にかけて、人参に火が通ったら味噌をとく。ふんわりと広がるどこか懐かしい匂いに心躍らせていると、玄関が開く音と共に近づいて来る足音。わくわくと胸を高鳴らせながら、私は菜の花を加えてさっと火を通す。我ながら実に完璧なタイミングだ。
「ただいま」
 コンロの火を消すと同時に、柚木さんが姿を表す。
「おかえり」
 言いながら顔を上げると、随分と今日は大荷物な様子だ。どうしたの? と聞く前に、柚木さんは私に手提げ付きの小箱を差し出した。この形、この色には見覚えがある。
「ルミエールのケーキ……」
 大好きなケーキ屋さんなのだが、駅からは結構離れた場所にあるが故になかなか買うことのないそれを、柚木さんはわざわざ買ってきてくれたのだ。嬉しい、とても、嬉しい。
「買いに行ってくれたんだ」
「食べたいかなって思って。あとこれ」
 もう一つは細長い袋なのだが、中身はずっしりと重い。ワインだろうかと袋を解けば、現れたのは万華鏡のようなラベル。
「えっ、花陽浴」
 予約してたのがようやく買えたのだと言いながら、柚木さんは着替えを終えて戻って来る。戸惑う私をよそに、さっさと手を洗うとてきぱきと配膳を始めていく。あっ菜の花だ、と呟いた口元が綻んだ。
「ちょっと待って蓮根焼く」
 私は慌てて冷蔵庫から蓮根を取り出してさくさくと輪切りにして酢水にさらす。からしとマヨネーズを混ぜて、大葉を洗って根元を切り落とした。
 冷まして落ち着かせた鶏肉の糸を外して切り分ければ、色鮮やかな断面が露わになる。小さな断面に広がるこの色彩がとても贅沢なものに思えるから、私は八幡巻きが好きだったりする。
 冷蔵庫からぬか床を取り出して、人参ときゅうり、そして玉子を引き上げる。半分に切った玉子の糠漬けの断面は、まるで満月のようだ。彩り良く見えるように盛り付けながら、柚木さんと暮らしていなければ私は盛り付けなんて一切気にすることなどなかったのだろうと考える。
 私の柚木さんへの愛が、パンによくバターが染み込むようにあらかじめ切れ目を入れておいたり、魚の骨をあらかじめ取っておいたり、美味しそうに見えるように盛り付けたりするようなものならば。
 出かける時に一緒にゴミを持って出てくれたり、帰りに私が好きなものをふらりと買って来てくれたり、美味しいとか好きとかを言葉にして伝えてくれるのが柚木さんの愛なのだろう。
 私達は互いにほんのりとした愛情を分け合って生きている。実にそれは穏やかで、名状し難く、そして心地良い。
 柚木さんが炊き上がったご飯を混ぜて味噌汁をお椀によそっている間に、私は蓮根にからしマヨネーズを和えて大葉と豚バラで包んでこんがりと塩胡椒で焼いていく。浮かれて買った豚肉がまさか活きるなどとは思うまい。このからしの風味と蓮根の歯触りがとてもお酒に合うのだ。
 急遽一品を追加し、ようやく整った食卓に透き通った杯が添えられる。いつもと変わらない最後の晩餐を囲いながら、私達は祈りを捧げるように手を合わせた。
「いただきます」