砂糖水に溶かしたロマンティック

P3Pその他

過去に真ハムアンソロ様へ寄稿したものです
ほんのりとすけべのかほりがするのでご注意


 月曜日と金曜日は真田先輩の日だ。
 それは一年前から変わっておらず、先輩が卒業して寮を出てからもずっと続いている。ただ、今までは海牛の牛丼や、はがくれの特製を食べに行くことが多かったのだけれど、最近は専ら私が先輩の家に晩ご飯を作りに行っているのだ。
 大学生になって忙しくなったからか、真田先輩の食生活は更に偏ったものになってしまっていた。プロテインも飲んでいるから大丈夫だ、と自信満々に先輩は言っていたけれど、正直に言ってそれはもう目も当てられない惨状で、そこで思わず言ってしまった訳だ。私が作りましょうか、と。
 最初は健康面が心配になって始めたことだったけれど、真田先輩の嬉しそうな顔を見てからは、すっかりその目的が変わってしまっていた。もっと先輩の喜ぶ顔が見たい、もっと美味しい物を作ってあげたい。そう考えて研究するうちに、私の料理のレパートリーは倍以上に膨れ上がっていた。
 荒垣先輩から教わったり、買った料理本を読んだりしながら、次に作る献立を考える時間は、もはや私の新たな楽しみの一つになっている。花嫁修行みたいだね、とラウンジでファッション誌を読みながら言ったゆかりの一言は、本人としては茶化すつもりで言ったのだろうけれど、私にとってはとてつもなく嬉しい言葉だった。
 だって、好きな人のお嫁さんというのは、女の子として誰もが憧れることではないか。これでもまあ、彼女だし。彼女という響きにさえまだ少し恥ずかしさを覚える私には、それはまだ遠いことなのかもしれないけれど。

* * *

 金曜日。今日の授業を全て終えた私は、いそいそと鞄に荷物を詰め込んでいた。休日の訪れに浮き立つ教室の雰囲気に釣られて、妙な焦燥に駆られるのを感じながら、必死に落ち着きを取り戻そうとするものの、高揚しきった気分を抑えることは到底出来そうになかった。
 月曜日と金曜日は一日の流れがひどく遅い。特にホームルームになると、このまま永遠に終わらないのではないかと思う程長く思える。一日千秋の思いで迎えた放課後に、真っ先に思い描くのは真田先輩の顔。早く早くと気持ちばかりが先走り、追い付かなくなった指先がノートを取り落とした。そんな私をゆかりと順平がにやにやとした笑みで見ていて、私は少し恥ずかしくなった。
 二人とは進級しても同じクラスになり、相変わらず順平と馬鹿なことをして、ゆかりとはガールズトークに華を咲かせている。送る日々は以前と変わらなくとも、世界の滅びを間近で体感していた私達にとって、その時間は今までとは全くの別物になっていた。皆口には出さずとも、もう二度と訪れない毎日を精一杯生きようと決めて、頑張っているのだ。
 進級と同時に私達を取り巻く環境も変化し、先輩と呼んでいた人の立場になっているのが何だかおかしくて擽ったい。まだ二年生の気分が抜けず、実感が湧かないのだ。いつか私も、先輩達が通って来たように進路の選択を経て、やがてここを旅立つ日が来るのだろうか。
 まだ慣れない新しい教室も、真田先輩が過ごした日々が詰まっていると思うと愛おしい。緩む口元をそのままに、使い込まれた机を一撫でしてから立ち上がる。ゆかりと順平に軽い別れの挨拶を済ませ、イヤホンを付けて教室を飛び出した。
 階段を一段飛ばしで下り、友人達に挨拶をしながら廊下を一気に駆け抜けると、あっという間に玄関ホールに辿り着く。お気に入りの携帯音楽プレーヤーを起動しながら、向かう先は巌戸台駅前商店街。
 今までは古本屋や飲食店しか寄ることがなかったが、食材の調達に通うようになってからは、地元の主婦ともちょっとした顔見知りだ。特売日や良い食材の見極め方を教えて貰ったりと、お世話になる機会は多い。
 イヤホンから流れて来た柔らかい歌声を聴きながら、温かな空気を胸一杯に吸い込む。決して来ることはないと言われていた春の匂いが私を包み込み、風に運ばれて来た桜の花弁に顔が綻ぶのを感じる。それは正しく、春の訪れの証だった。木々の芽吹き、新たな生命の息遣いを感じながら、私はまたこの季節を迎えられた喜びを改めて実感していた。
 真田先輩の腕の中でゆっくりと瞼を閉じたあの日、薄らいでゆく意識の中で、もう目覚めることはないのだろうと私は何となく感じていた。それが少し怖いと思ったけれど、私はそれを上回る程幸せだった。大好きな人の体温を感じながら、終わりを迎えられるだなんて。
 でも、少しずつ遠ざかっていく心音と体温が、やっぱり少し怖かった。あの時、アイギスもこんな気持ちを抱いたんだろうか。漠然とした思惟に明確な答えを見出だせないまま、私の意識は誰の手も届かない場所へ消えていく。
 だから、再び開けた視界の先に先輩の姿を見つけた時、私は再びこの場所に戻って来れた喜びを感じるよりも先に、どうして先輩が居るんだろうという、見当違いも甚だしい疑問を抱いたのだった。
 窒息するんじゃないかと思う程きつく抱き締められた後、真っ赤な目を潤ませる先輩から告げられたのは、安堵の言葉と私が一月近く眠り続けていた事実だった。見渡す景色には見覚えがあり、こここが桐条の病院だということに気が付いた。
「お前が生きていてくれて、本当に良かった」
 死を受け入れていた筈だったのに、少し低めの優しい声や、触れ合った肌の温かさ。硬い胸板を通して伝わる少し速い鼓動を感じると、生きていて良かった、なんて私は心の底から思ってしまう。すると、私の両目からぼろぼろと涙が零れてきて、止めようと思っても私の意志ではもう止めることは叶わなかった。
 今度はふわりと包み込むように抱き締めて、優しく背中を撫でられると、もう駄目だった。幼子のようにみっともなく泣く私を、先輩は何も言わずにただ受け止めていてくれた。やっぱり、私は死ぬことが怖かった。真田先輩とのこれからを、私は生きたかったのだ。
 それから今に至るまで、私達はごく普通の学生生活を送って来たけれど、何故私が帰って来られたのかは分からない。そこにはベルベットルームの住人達が一枚噛んでいるのかもしれないが、タルタロスが消滅し、裏路地に続く道もなくなってしまった今、それを確かめる術はもう残っていない。眠りの中から扉を開くことも可能だが、それは客人として招かれた時だけだ。そして私はもう、あの精神世界に招かれることはないのだろう。
 会計を済ませ、材料を袋に詰めていく。作る献立を前もって考えていたので買い物はスムーズだ。最初は四苦八苦していた袋詰めも、今となっては何をどこに詰めれば良いのか一瞬で把握できる。すっかり早くなった作業に、今時の女子高生らしくないと一人苦笑して店を出た。
 迷うことなく一番階段に近い車両に乗り込み、電車に揺られて先輩の家へ。卵を割ってしまわないように注意しながら、そっと立ち上がって電車を降りる。ここまで来れば、目的地はすぐそこだった。見知った道を通って、通りの脇にあるアパートの一室に向かい、真田明彦のプレートが付いたドアの前で深呼吸を一つ。
 毎回、この瞬間は緊張する。ポケットの中から鍵を取り出し、先輩の家の鍵穴に差し込む時、私はどうしても恥ずかしくなる。初めてこの部屋の鍵を貰った時の、妙に居た堪れない雰囲気を、どうしても思い出してしまうのだ。
「その、お前に……持っていて、欲しいんだ」
 眉間に皺を寄せて視線を逸らすのは、先輩が照れた時の癖だった。その証拠に、白い頬はいつもより随分と赤い。そんな姿に私まで赤くなってしまって、ついでに正座なんてしてしまって。ぎこちなくそれを受け取った、その時の記憶が毎回蘇るのだ。途端に頬が熱を持つ。落ち着きを取り戻す為に軽く頭を振ってから、鍵を開けてドアノブを回した。
 中に入った私を出迎えるのは、高校時代から使い込まれたトレーニング器具の数々。座る場所に困ることはもうないが、間取りの割に部屋が狭いのは相変わらずだ。それから感じるのは、やわらかな先輩のにおい。抱き締められた時に鼻孔を掠めるそのにおいが、この部屋にはいつも満ちている。まるで先輩に包み込まれているようだ、と微睡みにも似た感覚の中で私は思った。
 このままベッドで眠ってしまおうか、そんな甘美な誘惑が頭を過る。先輩のにおいがするシーツに包まって目を閉じれば、それは幸せな夢が見られるに違いない。けれど。
 甘い囁きにも似た誘いを撥ね除け、やや後ろ髪をひかれながらも私はキッチンに向かった。確かにその考えはとても心惹かれるけれど、私にとっては先輩の笑顔の方が何倍も魅力的なのだ。
 そうと決まれば話は早い。調理台の上に買って来た材料を広げ、早速下ごしらえを始めると、自然に笑みが零れた。リズミカルにまな板を叩く包丁の音は心地良い。それに合わせるように鼻歌を歌いながら、私は使い慣れたコンロの火を付けた。

* * *

 ふと見上げた空は暗い。そろそろ先輩が帰ってくる頃だと分かると、途端に私は落ち着かなくなる。早く会いたくて堪らない、声が聞きたい。膨らむ期待はやがて焦燥に変わり、意味もなく部屋を右往左往する様子は、変質者以外の何者でもない。三往復目に差し掛かった時、部屋に置いてある固定電話が静寂を切り裂いて鳴り響いた。
 突然の事態にどうすることもできず、私は立ち竦んだ。これは応対した方が良いのだろうか、そう考えて電話を取ろうとした時、頭の中に浮かんだ想像が私の手を止める。しかし私が出なければ電話は切れてしまう。一瞬の逡巡の後、私は勇気を振り絞って電話に出た。
「はい、真田です」
 自分でも分かるほど上擦った声に顔が熱くなる。何て恥ずかしい。これではまるで──
「公子」
 受話器のスピーカーを通して聞こえてきたのは、ずっと聞きたいと思っていた人の声で、きゅんと胸がときめくのを感じる。何の準備もしていないのに、いきなり名前を呼んだりされると困る。さっきまで思考を占拠していた事柄を思い出し、更に顔が熱を持つのが分かった。
「……その、なんだ。お前がそう言ってるのを聞くと──」
 夫婦、みたいだな。なんて言われて私が平気で居られる訳がなかった。頭の中が沸騰するような錯覚に襲われて、思わず受話器を取り落としそうになる。私が必死に意識から追い出していたその考えを、あっさりと先輩は口にしてしまったのだ。何て恥ずかしいと思いながらも、嬉しく思ってしまう私はこの人に相当骨抜きにされているのだろう。
 そうですねと答える私はもうしどろもどろで、忸怩たる思いに受話器を放り投げて逃げ出したくなった。しかしそれを実行できないのは、少しでも声を聞いていたいからという理由に他ならない。
「──で、その……どうしたんですか?」
 甘い雰囲気を断ち切るのには少し未練があったが、これ以上は私の心臓が持たない。強引に話を進めると、先輩は思い出したようにああと声を上げた。
「……すまないが、今日は早く帰れそうにない。その、どうしても断りきれなくて」
 申し訳なさそうに沈んだ先輩の声の後ろから、大きな笑い声が聞こえた。それからすぐ近くで重い溜息。流石に私でもこの状況は理解できた。
「新歓コンパですか」
 心底げんなりとした声で、先輩は短い肯定を返した。その様子から、ほぼ強制的に連れ出されたのであろうことが容易に想像できる。どうやら大学でも先輩は一目置かれているらしい。これはファンクラブが出来るのも時間の問題かもしれないと考えた時、遠くで先輩を呼ぶ声がした。
「すまない、公子。そろそろ……」
「良いですよ、別に。私のことは気にしないで下さい」
 明るく言いながらも、受話器を持つ手に力が入る。帰宅が遅くなることに問題はない。真田先輩にも用事はあるし、むしろこうして連絡までしてもらって申し訳ない位だ。
 私の中で引っ掛かったのはそこではなく、もっと別のことだったのだけれど、それを認めるのは何となく憚られた。苛立ちの理由が分かってしまえば、自らの中にある汚い感情をも肯定してしまうことになる。私にとってそれは恥ずべきことであり、先輩にそれを悟られてしまうことだけは絶対に避けたかった。
 努めて平静を装い、いつもと変わりなく話したつもりだったのに、先輩は何かを感じ取ったらしい。訝しげに名前を呼ぶ先輩の声が、私にはどうしても耐えられなかった。
「じゃあ、楽しんで来て下さい」
 それだけ言って、先輩が何かを言う前に電話を切った。それと同時に襲ってきたのは、どうしようもない後悔の念だった。やっちゃったと一人呟きながら、ずるずると力なくソファに沈む。膝を抱えて、そこに顔を埋めながら、頭の中に蘇ったのは先程の電話で聞こえてきた声だった。
 真田くーん、と先輩を呼ぶ声が可愛らしい女性のものだった。たったそれだけのことで、私は隠し切れない程に苛立ってしまったのだ。それが意味することは明確、つまり嫉妬だ。
 零した溜息は、広い室内でいやに大きく響いた。そのことに、ここには私一人しかいないという事実を改めて思い出す。テーブルの上に置かれた手付かずの料理へちらりと視線を向けて、感じたのは言い様のない侘しさだった。
 真田先輩の分まで食べてしまおうか、そう思惟して、やめた。先輩の為に作った料理なのに、自分一人で食べても意味がない。それに、そんなことをすればもっと空しくなるのは分かり切っている。嘆息しながら、再び顔を膝の上に乗せて瞼を下ろす。真っ暗な視界の中で、耳鳴りがしそうな位の静寂だけが私を取り囲んでいて、誰かの手で鷲掴みにされたように胸の奥が痛んだ。
 はっとした。『寂しさ』を感じたのは久し振りだった。今まで一人が寂しいなんて思うことはなかったのに、この瞬間、私は孤独であることにどうしようもない心細さを抱いていた。どんどん熱くなっていく目頭にただ狼狽しながら、私は長らく触れていなかった感情を完全に持て余していた。
 私はいつからこんなにも弱くなってしまったのだろう。強くなくては、生きていけないというのに。熱い雫が頬を伝い落ちていくのに気付いて、慌てて目元を拭う。それでも止まることのない涙は、堰を切って溢れ出した。もう大洪水だ。
 為す術なく打ち拉がれていると、いきなり大きな音を立てて玄関のドアが開かれた。この部屋へ勝手に入って来れるのは、私の他にはもう一人しか知らない。唐突過ぎる出来事に戸惑っている間に、足音は一気に近付いて来る。
「公子!」
 どうして、とか、なんで、だとか考えている間に、私の体は真田先輩の腕の中に包み込まれていた。走って来てくれたのだろう、呼吸は乱れ、うっすらと汗をかいているのが分かった。どくどくと鼓動する激しい心音が、布地を通して私に伝わってくる。その心地良い生命のリズムは、私の仄暗い気持ちを掻き消していく。
「すまなかった」
 抱き締める腕の力が強くなって、先輩の逞しい体にすっぽりと覆われる。低く、落ち着いた声が耳朶を打ち、それは私の中にすっと沁み渡り、あれほど止まらなかった涙が嘘のように引いていく。先輩の体温に安堵を感じながら、私はその大きな背中に腕を回した。

* * *

 私が落ち着くのを待ってから、少し遅めの夕食を二人で食べた。二人とも妙に話し辛く、何とも微妙な空気のまま食べ終えた食事は確かに美味しかったのだけれど、どこか味気ない。その原因は間違いなく私だった。こんなはずじゃなかったのに、と食器を洗いながら零した溜息に、隣でお皿を片付けていた真田先輩の指先がぴくりと震えて、私はますます申し訳ない気持ちになった。
「本当にすまなかった」
 片付けが終わり、ソファに二人何をするでもなく腰かけていると、先輩が心底申し訳なさそうにそう言った。端整な顔に浮かんだ沈鬱な表情は、私を居た堪れなくするには十分だった。先輩は何一つ悪くないのに、そんな顔をさせてしまっていることが腹立たしく、悔しい。どうして私はこうなのか。
「違うんです! その……あぁ、もう!」
 きちんと言葉にしなければ伝わらないのに、その為の音を紡げないのは、先輩にそれを曝け出すことを躊躇っているからだ。いきなり頭を抱えてしまった私を、先輩は目を丸くして見つめていた。きちんと言わなければ。じゃないときっと後悔する。
 真田先輩はじっと私の目を見つめて、次の言葉を待っていてくれていた。無言の優しさに少しだけ甘えてから、姿勢を正して向かい合う。私の中の醜い部分を知られるのは抵抗があったけれど、このまますれ違うのはもっと嫌だった。
「先輩が悪いんじゃないんです。ただ、私が我儘なだけで。ああ、もう、駄目だなぁ……」
 意味のない、要領を得ない言葉ばかりを発して、肝心な部分が全く伝えられないことが、もどかしくてたまらない。語彙が足りない訳ではなくて、頭の中で言いたいことがうまく纏められていないから、明確な言葉を紡げないのだ。
 そんな私を促す訳でもなく、かといって諦めるでもなく、ただ先輩は耳を傾けていてくれる。先輩と付き合っていると、よく物好きだなんて言われるが、こんな私の傍に居てくれる真田先輩の方がよっぽど物好きだと私は思う。
 つい最近まで薙刀を握っていた手は、女の子らしい繊細さなど全くと言って良い程感じられない。ゆかりのようにマニキュアを塗り、ラインストーンを置いた煌びやかな爪に憧れてはいたが、すぐに剥がれてしまうことは分かり切っているので、結局ハンドクリームを塗ることだけに留まった。体も細かな傷や痣がまだ残っていてお世辞にも綺麗とは言えず、滑らかな質感とは程遠い。
 巷を歩く女の子や雑誌のモデルを羨望の眼差しで眺めて、自分との大きな違いに落胆したことも少なくない。華やかに着飾る服や装飾品を買う前に、強大な敵を打ち倒す武器を買った。美容の為に眠る時間があれば、巨大な要塞で腕を磨き、力量を上げた。女の子らしい可憐さや、淑やかさなどどこにもない。その度に、真田先輩はこんな女の何が良いのだろうと考えずには居られなかった。
「──先輩が女の子と話したりするのは当たり前なのに、勝手に苛々して、先輩に当たって。そのくせ一人で不安になって、先輩を困らせて。ほんともう、情けない……」
 ぽつりぽつりと話していくうちに、自分がとことん嫌になってくる。先輩には色んなものを与えて貰っているのに、私はまだ先輩を欲しがっている。私はこんなにも貪欲だっただろうか。
 何も言ってくれない先輩に不安を抱いて、後ろめたさに伏せていた顔を持ち上げると、不意に抱き竦められた。うまく状況が掴めずに目を瞬かせていると、耳元で先輩の声がした。
「今は見ないでくれ」
 嬉し過ぎてどうすれば良いか分からないんだ、と続けられた言葉の意味が、全くもって理解できない。今の言葉のどこにそんな要素があったと言うのか。横目でちらりと覗き見た先輩の耳は驚くほど真っ赤で、ますます意味が分からない。
「そんな風に苛立ったり、不安になったりしていたのは俺だけだと思ってた……」
 優しく囁かれた言葉に、私だけではなかったのだと胸の奥がじわりと温かくなる。きっと今、先輩も同じ気持ちを抱いているのだろうと思うと嬉しかった。同じように、好きだと思ってくれていることが伝わってきて、私はぎゅっと先輩の背中に腕を回した。感じる鼓動がさっきとは違う理由で激しくて、早くなったリズムが愛おしい。
 暫くの間何も言わずに抱き合っていたけれど、やがて密着していた体がゆるりと引き離され、代わりにしなやかな指先が顎のラインを捉えた。頬に添えられた手と、顔に落ちる影に、躊躇うことなく瞼を下ろした。
 程なくして触れた感触に、ただ酔い痴れる。少しかさついた唇、優しく頬を撫でる温かい手。このまま時が止まってしまえば良い、そんな思いが脳裏にちらつく。
 小さく唇を開くと、入り込んで来る舌。いつからこんな大人のキスをするようになったのかは分からないが、でも今はそれが当たり前のように受け入れている。お互いの舌を絡めながら、私はもう必死で。そろりと瞼を開ければ、優しげに細められた先輩の双眸があった。綺麗なその瞳は少し熱っぽい光を湛えていて、ひどく官能的。ぞくりと全身が粟立つのを感じながら、きっと私も同じ目をしているのだろうと思った。
 ふ、と漏れた吐息はひどく婀娜っぽい。少し息苦しくなってきたところで唇が離されて、名残惜しさに思わず小さな声が出た。二、三度触れるだけの口付けをして、そのまま先輩はゆっくりと首筋に唇を添わせる。耳元まで辿り着いたそれが緩慢に開き、吐息と共にひどく甘い声を捩じ込んでいく。
「ベッドに行こう」
 少し掠れた、低い声音。余裕の感じられないその一言に込められた意味は明白。行為自体は初めてでないにしろ、やはり緊張はする。乱れた呼吸ではうまく返事することが出来ず、首に腕を回してしがみ付くことで意思を表した。
 膝裏と背中に手が差し入れられ、力強い腕が私を抱き上げる。こんな時、やっぱり男の人なのだと実感する。硬い胸板や鍛えられた筋肉の質感。普段は服の下に隠れているけれど、無駄が一切なく逞しい体は、やはり私とは全く違うのだ。
 柔らかいベッドの上に優しく横たえられ、熱を持った体はシーツの冷たさにぶるりと震えた。離れた体温が恋しくて、取り戻そうと夢中で手を伸ばすが、それは空しく空を切る。
「……せん、ぱい」
「明彦だ」
 もう一人分の体重を受けたベッドが、ぎっと苦しそうに鳴いた。もう一度深いキスを交わしながら、そろりと背中に腕を回そうとするが、すっかり力の抜け切った体では叶わず、僅かに服を掴むことしか出来なかった。首筋を這って行く舌に、寒さとは別の震えが走り、びくびくと体が跳ねる。触れられた部分が熱を持ち、そこから全身が火照っていくのを感じた。
「明彦さん、」
 熱に浮かされた声で名前を呼ぶと、先輩はとても嬉しそうに笑って応えてくれた。名前を呼ぶだけで、体を触れ合わせるだけで、どうしてこんなにも幸せな気持ちになるのだろうと、とろとろになった頭で思考する。しかし、それも首筋に与えられたちりっとした痛みに一瞬で霧散した。
「……好きです。明彦さんが、好き」
 吐息交じりに放ったその一言は、今私が感じていることの全てだった。余りにも拙い言葉だったけれど、私にはこの気持ちを伝えられる言詩が他に思い浮かばなかった。その代わりに、ありったけの想いをその中に込めた。
 先輩の目がほんの少しだけ瞠られ、肩がぴくりと揺れる。横たわった体に跨ったまま、先輩はじっと私を見つめていた。
「お前って奴は……」
 瞼を下ろし、溜息を吐くように言う。それから再び目を開けた時の先輩が、男の人の顔をしていて思わず心臓が跳ねた。この人は不意にこんな姿を見せて来るのだから、本当に性質が悪い。心臓が幾つあっても足りないのではないかと、本気で考えることもしばしばだ。
 いつもは私が振り回しているはずなのに、いつの間にか先輩のペースに飲み込まれている。そう気付いた時には既に手遅れなことを私は今までの経験から知っていた。
「すまない、今日は」
 先輩は本日何度目か分からない謝罪を口にする。しかしそれを告げる口調は、今までとは全く異なっていて。口の端に咥えた小さな袋の封を切り、先輩は続けた。
「──止められそうにない」
 切羽詰まった声。真剣にこちらを見つめる、整った相貌。その全てが蠱惑的で、悔しい位に恰好良かった。今更ながらに羞恥心が湧き上がり、口元に手を当て、潤んだ視線を逸らすことしか私には出来なかった。
 目には爛々と獰猛な光を宿しているのに、きっちりと着込んだ制服を暴く手はひどく優しい。猛る自身の欲望を抑え込み、あくまで私が傷付かないように気を遣ってくれているのが分かった。手伝おうと自分の服に手を掛けると、先輩は柔らかくそれを制してきた。まるでそれは自分の役目であるかのように。
「ん…っ」
 先輩の手が、明確な意図を持って私の体のラインを撫でる。それだけで声が漏れ、性感に体が震えた。真っ赤なリボンが解かれ、開かれたブラウスから入り込んできた手が、背中のホックを初めての時とは比べ物にならない程の鮮やかな手付きで外す。全身を溶かしていくような優しい愛撫をしながら、蕩けるように甘い声で先輩が囁く。反則だと思った。


「お前が、好きだ」