最後の楽園

オリジナル

貴族に買われた少年達が織りなす、少し不思議で不気味で切ない物語
美少年っていいよねっていうおはなし


 好奇心とは得てして抗えないものである。それは、人が種として発展していくための本能であるとも言えるからだ。知りたいという欲求の先に手を伸ばし、人はあらゆる英知を獲得してきた。そして、同じ数だけ身を滅ぼしてきた。それでも人は、興味を抱かずにはいられない。果たしてそれは、愚かと言えるだろうか。断じることができる者など存在しない。



「ようやく手に入れたぞ……」
 初老の男は恍惚といった様子で呟いた。
 城下町の地下、限られた者しか入ることが許されない秘された競売場。そこでは毎夜、表では売り捌けない品物が並べられ、取引されている。世間では消失したとされる美術品、禁猟対象であるはずの動物、そして人間。財を持て余した人間達が集い、それらに札束を積んでいく。どこに金が流れるかなど知ったことではない。何を手に入れるかだけが肝要なのである。男もまた札束を幾つも積み、新たな蒐集品を迎えることができたのだ。
 蓄えた口髭を撫でながら、男は荷台に積まれた戦利品を見遣る。棺桶のような、細長く堅牢な箱がそこにある。石畳を進む馬車の振動が伝わり、ごとりごとりと揺れていた。
 屋敷に辿り着くと、主人の帰りを待っていた従者達が、箱を男の私室へと運び込む。古今東西の骨董品で埋め尽くされたその部屋は、見る者を圧倒する。それは従者達も例外ではなく、彼らはこうして主人の部屋に足を踏み入れる度に息を呑むのだ。従者が深々と頭を下げて退室したのを見届けてから、男は運び込まれた箱を興奮に息を荒げながら開いた。
 大きな柩の中に、死体はない。血の通った、生きた人間が入っている。
 その容貌は少年と青年の間といったところで、晒された首元にはくっきりとした喉仏がその存在を主張していた。黄昏が宵に変わる頃のような、紫を帯びた暗い髪がたおやかに広がっており、繊細な印象を抱かせる。しかし、開かれた切れ長の双眸は、すっと通った高い鼻梁も相まって男性らしい力強さがあった。
 それだけを見れば、端正な顔立ちの少年である。箱の中に押し込められてはいたが、何らおかしい部分はない。それだけに、薄い唇に噛まされた口枷が、強い異質さを放っていた。ラバーから伸びた紐が後頭部を通り、口元の自由を完全に奪い、拘束している。
「立て」
 男の声に、少年は緩慢に身を起こし、立ち上がる。すらりとした体躯が、棺桶の中から姿を現した。男はどこか落ち着かない様子で、少年の全身を値踏みするように上から下まで睨め回す。そして、荒く鼻息を漏らして口端を釣り上げた。
 男の手が、少年に伸びる。少年はそれを避ける素振りも見せず、ただじっと男を見つめていた。皺の刻まれた指先が少し跳ねた髪に触れ、後頭部へと回り、口枷の留め具を外した。
 口枷が滑落する。ほんの少し唾液が糸を引き、途切れ、少年の口が解放される。落ちた口枷の金具がぶつかる音だけが、部屋の中で密やかに響いていた。少年は口を引き結び、物言わず男を見つめている。壁際の棚で息を殺している年代物のビスクドールと同じ顔をしている。
「私はくだらん噂など信じんぞ」
 はっと短く嘲笑して腕を組み、男はあからさまな侮蔑の表情を浮かべて少年を見下していた。男は完全に優位に立っていた。少年を買い、生殺与奪の権を握っていた。その全てが男の胸三寸で決まるのだ。だが、何故か男の顔に余裕の色はない。むしろ、浮かべた表情は虚勢にすら見える。奇妙な状況であった。
「そら、歌ってみろ」
 男が告げる。その声は、若干の揺らぎを伴って少年の耳に届く。眉一つ動かさず、少年は男の指示に従い口を開け、深く息を吸い込んだ。



 洗練された芸術とは、時に人の心を強く揺さぶる。それらは文化として残り、脈々と系譜を繋いできた。これもまた人の歩みであり、今もなお人は高みを目指す。ならば、その頂点、突き詰められた完成形、究極の至りを見せられたのならば、人はどうなるのだろうか。
 ──人は、壊れる。それを受け容れる術を知らないからだ。



 少年は鳥籠の中にいた。鳥籠と言っても、それを模した鉄製の檻である。再び口枷を噛まされ、囀ることができない鳥として、少年は飼われていた。周囲には様々な蒐集品が並べられており、主と限られた従者しか立ち入らぬ部屋は静まり返っている。永遠に続くかのようなその静寂は、ドアが開く音によって唐突に破られた。
 入ってきたのは、ポマードで撫で付けられた頭髪と、蓄えられた贅肉が印象的な男だ。食事や新たな蒐集品を運んでくる従者以外で、この部屋に立ち入れるのは部屋の主たる人物しかいない。その男に続いて従者が入室する。二人がかりで運び込まれたのは、ベルベットが被せられたいやに大きな箱であった。
 従者が恭しく礼をして退出すると、男は箱を覆う布を一気に引き剥がした。現れたのは、少年が今飼われているような檻である。中型の家畜用のものと思しきその中に押し込められていたものは、人であった。
 瞬間、空気が変わる。形容し難い、産毛を撫でられるような感覚が全身を包み込んだ。
 男が恐る恐るといった様子で檻の中からその人物を出す。夜が明ける前のような藍色の髪は、肩よりもやや高い位置でぴったりと切り揃えられていた。肩から下は上質な布ですっぽりと覆われていて、その一切が分からない。絹糸のような艶やかな髪が揺れる度に覗く滑らかな頬は、抜けるように白く、目を覆うようにして結ばれた黒い布の異質さを際立たせていた。
 得体の知れない感覚に震える男の手が、纏っている布の結び目を外す。晒されたのは、白い裸身。男は圧倒され、息を呑む。男の体に汗が浮かび、呼吸が浅く、早くなっていく。鳥籠の少年から見えるのは後ろ姿のみで、性別は分からない。だが、そんなものはどうでもいいことであった。
 最早正確に動かすことも儘ならない男の指が、目を覆っていた布の結び目を性急に解く。ごく僅かな音を立てて、布が床に落ちる。そうして開かれた目を、男は見た。その人物を構成する全てが揃う瞬間を、目撃した。



 それから、男は屋敷から出なくなった。贅を凝らしたドレスを幾つも作り、着せ替える。手ずから食事をさせ、入浴をさせ、甲斐甲斐しく世話をした。諫言を跳ね除け、やがて男は部屋からも出なくなった。屋敷からは少しずつ蒐集品と人間が消えていく。少年を戒める鳥籠と口枷はなくなり、最後の使用人も消えた。
 男はすっかりと痩せこけ、落ち窪んだ瞳でうっとりと着飾った人形を見つめている。そうして過ごすのが男の日常となっていた。寝食も何もかも忘れ、日がな一日ただ一人の姿を焼き付け続ける。それが男の全てであり、その喜びに殉じて男は死んだ。
 動かなくなった男を一瞥して、寵愛を受け続けた人形は座していた豪奢な椅子から軽やかに立ち上がる。自らの役目は終わったとでも言うように。空っぽの屋敷を徘徊し、人形は最後の蒐集品に出会う。
 少年は食事の準備をしていた。もう残り少ない食料はこれから辿る末路を決定付けていたが、少年には行くべき場所も行きたい場所も存在しなかった。無為にただ、生き長らえるだけの行為である。
「まだ食料は残っているか」
 問いかける、仄かな幼さを残したテノール。振り返った少年は、瞬間──全てを忘れた。美しく切り揃えられた藍の髪。精巧な細工が施されたドレスで首元まできっちりと着込んだその姿。以前に見た裸身を思い出し、纏わされているこの豪華な布が不必要で不自然なもの・・・・・・・・・・だと感じてしまう。それほどまでの完璧な姿。あの日見ることができなかった背中の向こうが、今ここにある。ドレスを着ていたが男であったのかと驚いたが、それは些末なことだ。性別などとっくに超越した何かが、そこに立っていた。美しい、などと陳腐な言葉では形容できない容貌がある。閉ざされた瞼の淵を、長く濃い睫が彩っていた。
「は、はい。まだ少し残っています」
 少年はようやく我に返って慌てて返事をする。少年の放つどこか甘いような、胸を締め付けられるような、言い表すことのできない不思議な声色は、ずっと聞いていたいと思わされる不思議な響きがあった。少年がもう一人分の食事を皿に取り分けている間に、そのもう一人は姿勢正しく椅子に座していた。テーブルに自分の分と、もう一人の食事を並べると、形の良い唇が開かれて、食べさせてもらえないだろうかと告げた。
「目が、見えないのですか?」
 今までは男が全ての世話を行っていたが、それは寵愛の類ではなく介助だったのだろうか。少年が自然に発した問いに、唇が弧を描く。その変化一つにすら、少年の肌は興奮に粟立った。
「目を開けた俺をお前が見れば、あれ・・と同じになるぞ」
 目を閉じたままくつくつと笑うその姿に、少年は直感にも似た確信を抱く。目を開けたその姿──最後のピースが揃った完成形を目にしたら、もう二度と意思を持つことはできないだろうと。
 ぞくりと背筋を興奮が駆け抜ける。それは、甘い誘惑であった。この身を滅ぼしてでも、『見たい』と本能が訴えかける。それが自然なことで道理であるのだと、心の奥深い部分から欲求が沸き上がる。胸の鼓動が、一際大きくなる。
「俺はお前の歌を聞いてみたいがな。その声が紡ぎ、奏でる音を知りたくて堪らない」
 伸ばされた白い指が、少年の頬をそっと撫でる。漂う生々しい欲の香が絡み付く。このような完成された存在にも欲望は存在するのだと、相反する事実に頭がくらくらとする。
「いけません……私の歌を聞いてしまえば」
「死んでしまう、か? 噂は本当なのだな」
 天にも昇る心地とはよく言ったものだが、まさか本当に死んでしまうなどとは思うまい。至高の歌声を求め、幾人もの人間が少年を飼い、死んでいった。好奇心によって身を滅ぼした。少年の唇を、強請るように指先が滑っていく。
「ああ……お前の歌声を聴いて死にたい」
「嫌です。あなたの姿を見られないまま死ぬなど考えられません」
 甘く蕩ける囁きに、少年は心の底からの拒絶を示した。その目が開かれた姿を見ることなく、自らの手で殺してしまうなど、この世の全てを煮詰めても有り余る恐怖であった。それが面白かったのか、声を上げて笑っていたその声音が、ふと切なさを帯びる。
「心中もできぬのだな」
「ええ。あなたの目が開かれたのを見た瞬間、私は喉を潰してでもあなたを生き長らえさせるでしょう」
 それは、想像ではない事実であった。どちらともなく息が漏れる。
「互いに狂おしいほど求めているものを、得られないまま死ぬのだな」
 瑞々しい果実のような唇が、口惜しいと紡ぐ。艶めく髪が、さらりと揺れる。嗚呼、嗚呼──

 ──この世の地獄がここにある。