Der Hirt auf dem Felsen

メルクストーリア

「マリッジブルーじゃないか?」
 長年の親友はあっけらかんとそう言い放った。
 あまり人に聞かれたくない話であったので郊外まで出向いたのだが、何かが始まるのはいつもここからであったように思う。人気のない池のほとりに二人並びながら、胸のつかえをぼつりぼつりと吐き出していく。投げ込んだ小石は、波紋と共に鈍い水音を立てながら沈んでいった。
 セレナの様子が、最近少しおかしい。物憂げに溜息を吐いたり、どこかぼうっとしていたり。いつもの毅然とした彼女の態度とは少し違っているように見えるのだ。
 あの一件から声を取り戻した彼女は、公演に立つことが増えた。長きに渡って沈黙を続けてきた歌姫のさえずりに、聴衆達は大歓喜した。透き通った、儚くも凛とした歌声。はっとするようなその美貌。優雅な所作。誰もが彼女から目を離せない。洗練された美しさが、そこにある。歌鳥の名に相応しい、全てを魅せる圧倒的な力だ。
 セレナはその舞台にこそ相応しい。彼女がそうありたいと願っている姿であるのだから当然だ。なのに何故だろう、この胸の奥をちくりと刺すものがあるのは。セレナの隣に立つに相応しい存在になる、そうして彼女を守ると決めたのは自分であるはずであるのに。時折ひどく、彼女を攫って閉じ込めてしまいたくなる。
 その感情が何であるのか分からない訳ではなかったが、それは表に出すべきものではないと言えた。こんなひどく自分本位でみっともないものは内に留めておくに限る。このままつつがなく事が進み、彼女と公に結ばれることになれば、この思いも消えるのだろうか。
「まったく、君までマリッジブルーか?」
 はっと顔を上げると、呆れた表情でこちらを見つめる友の姿。どうやら様子がおかしいのはセレナだけではなかったようだ。短く詫びると、彼は仕方がないとばかりに眉を下げて肩を竦めた。
「嬉しくはあれど、憂鬱になることなんて何一つないな。こうして彼女の傍にいられるのだから。まるで夢物語みたいだ」
 こうして再びセレナの元へと戻ってくることができた。彼女と想いを交わすことができた。そのことは未だにふわふわとしていて現実味を帯びずにいる。これはいい夢で、目が覚めたら無味乾燥な現実が待っているのではないか、そんな気がしてならない。
「おいおい。これは君が掴み取った結果だぜ、アンテル」
「そうだな。君には本当に感謝しているよ、ルピエ」
 二人同時に破顔する。ディーヴァとして歌劇場に立ちたい、そう言った時の彼のひどく驚いた表情を思い出した。きっとルピエも、同じ情景を思い出しているのだろう。碌に歌ったことすらなく、ひどいさえずりしかできなかった自分を、ここまで育て上げてくれた彼には本当に頭が上がらない。彼がいなければ、自分は今こうしてこの地に戻ってくることはなかったのだから。
「……っと、話が逸れた。公演後のセレナの様子に変わりはありそうか?」
 彼女の不調は、久々の公演による精神的な疲労によるものだろうかとあたりを付けていたのだが、ルピエの合点がいかない表情から察するに、どうやら予想は外れているらしい。
「うーん、久々に壇上に立つことができて喜んでいそうではあるけど、特にそこまで不調になるほどの緊張や疲れはなさそうだったと思うな」
 やはりセレナにとって舞台は充足に満ちた場であるようだ。人に求められ、崇拝されることに自分を見出していた彼女のことだから、それが負担になっているのではないだろうかと心配していたのだが、どうやらそれは杞憂であったようだ。なら、彼女の心の枷となっているものとは一体何であるのだろうか。
 先程友人が発した『マリッジブルー』という言葉が、頭の中で反芻される。見合い話は滞りなく進んでいるが、セレナが憂いを抱いたままの状態でなし崩しに事を進めるのは憚られた。彼女は自分を好きだと言ってくれ、その言葉に嘘がないことは分かっている。そうなるとやはり、彼女を縛っているものはあの日と同じ箱庭を覗く目なのだろうか。
「一度話してみたらどうだ?」
 眉間に皺が寄っていることを指摘され、瞑目して息を吐いた。どうやら我知らず考え込んでしまっていたらしい。一人で考えていても何も変わらない。何かを変えたければ自分から行動しなくてはならない。それはかつて彼女を失って気付いたことであった。
 約束を果たすため、セレナの隣に立つため。努力を重ねてパルティシオの舞台に立ち、ディーヴァとして認められる実力を得た。然りとて、本来の自分はみすぼらしく冴えない、死にかけの鳥のような男なのだ。自信など、メッキのようにあっけなく剥がれ落ちてしまう。
「……怖いんだ。彼女は素敵な人だから、隣に立つのが僕で本当にいいのかと」
 脆く臆病な彼女を守りたい。そのためなら何だってできた。何だってできる自分になった。自分は今、彼女を守れているだろうか。沈鬱に曇る顔を思い出し、胸が詰まる。思考の泥沼に沈みそうになり、もう一度深呼吸をした。どうにも気分が落ち込んでしまっていけない。
「随分と自信がないんだな。自信がないなら、信じてやれよ。お前の愛をさ」
 俯けていた顔を上げると、友人は悪戯っぽく笑ってウインクをひとつ。
 彼女に相応しい存在になるために、磨き続けた自分自身。信じられずして彼女への愛など語れるものか。それが信じられないのなら、すなわちセレナへの愛もその程度であると自ら認めるようなものであるのだから。まだらもみずたま、友人がよく口にする言葉だが、なるほどと思わされる。敵わないなと零すと、それはこちらの台詞だと友人は笑った。
「お前のその想いの強さは、本当に凄いんだ」
 友人の言葉は不思議と胸の内にすっと馴染んでいき、力をくれる。それは親友であるが故なのか、彼の持つ才能であるのかは判断がつかないのだが、自分は彼に幾度となく助けられているのだ。短く謝辞を告げると、貸し1だからなと彼は小石を片手にニッと口角を上げる。ルピエの手から放たれた石は小気味よく水を切って跳ねていき、見えなくなる。水面には水玉のような波紋だけが残っていた。

♪ ♪ ♪

 仕事へ向かったルピエと別れ、向かったのはセレナの屋敷であった。ディーヴァのみが住まうことの許される邸宅には自分も居住する権利を有しているが、自宅の方が落ち着くこともあって今はまだそちらに住んでいる。歌劇場に隣接した豪奢な屋敷は、その力を誇示する装飾品であり、歌鳥を囲う鳥籠のようにも見えた。
 ディーヴァの部屋に向かっていると、どこからか歌声がすることに気が付いた。それは部屋が近くなるにつれはっきりとしていき、歌声の主がセレナであることを知る。
「歌壇を震わす力強い声。朗々と澱みなく紡ぎ出される歌鳥の調べ。非の打ちどころなどどこにもない至高の芸術。誰もが心を縛られ酔い痴れる──彼の美しさを知る」
 扉の向こうから聞こえてくる調べは、どこか少し悲しげでもある。歌が途切れたところでドアをノックすると、慌てた声音が誰であるかを吃と問いかける。ドア越しに自分であるということを告げると、その調子が穏やかになり、入室を許可される。その些末な変化すら、どうしようもなく愛おしかった。
「邪魔をしたかな」
「い、いえ……稽古をしていたわけではなかったので……」
 テーブルに置かれた紅茶から、芳香が立ち上る。恭しく一礼をして去っていく使用人を見送って、向かいに座するセレナをじっと見つめた。視線に気付いた彼女はほんのりと頬を染めると、眉を下げて目を逸らす。ああ、またこの顔だ。と思った。
「いっ、一体何ですの……? 何かあるならおっしゃって」
 少し逡巡を見せた後、耐えかねた様子で彼女が口を開いた。その瞳が憂いを帯びていく。そんな姿は見ていたくないし、させたくない。だからこそ今、こうして彼女のもとを訪ったのだ。
「それを聞きに来たんだ。君は最近ずっと思い悩んでいるみたいだったから。何かあるなら言って欲しい。僕は君の力になりたい」
 セレナの目が大きく瞠られた。そうして、その表情は苦々しいものへと変わっていく。やはり彼女の心には暗雲が立ち込めていたのだろう。それもどうやら自分が関係しているものであるようだった。何でもありませんわ、と何でもないことはない様子で彼女が呟く。セレナの心はは分かりやすく、分かりにくい。巧みに人の心を攫って行くのに、殊更自分のことに関しては不器用なのだ。
「──教えて欲しい、愛しい人。ここには僕しかいないから、君の心に触れさせて」
 小さく囁くように、唇に歌を乗せる。そうして彼女の内側に踏み入ってもよいかお伺いを立てるのだ。彼女は弱い部分を見せたがらない、見せられない人であるから、人よりもずっと頑なだ。それをゆっくりと、傷付けてしまわないよう慎重に和していく。
「いけませんわ……こんな、みっともない……」
 か細い声が、ぼそぼそと発される。自慢の美しい羽は窄められ、いつもの屹然とした彼女からは考えられない姿であった。一番高い木に止まることの孤独は、彼女から弱音を奪ってしまった。飲み込んできたその思いの数々を受け止めさせて欲しいのに、彼女の自尊心が邪魔をする。
「なら、歌を聞かせて。飾らない思いのままを、君の声でさえずって欲しい」
 セレナの瞳は不安な色を湛えて揺れている。沈黙の中、長い、長い葛藤を経て、ようやく彼女はひどい歌ですわよ、と零した。それでもいいと頷くと、彼女は観念したように瞼を下ろし、息を吸った。
「あなたは歌壇の王。誰もがあなたの歌の虜。誰もがあなたを放っておけない。そうあれと望んだのはわたくしなのに、胸を炎が燻っている。あなたは美しい人。隣に立つわたくしは美しくあらねばならないのに、醜いものになっていく。わたくしはそれしか持たないのに」
 潤んだ瞳がこちらを真っ直ぐに見ていた。溜め込み続けた思いを吐き出すことへの羞恥か、それとも的外れな自責か。心の揺らぎがそのまま表れた、弱々しいくぐもった歌声だったが、きちんと全て届いてはいた。深く息を吸い込むと、彼女は歌の続きを紡ぐ。

 ──その一音目を耳にした時、肌がぞくりと粟立った。

「あなたが好き。あなたが愛おしい。あなたしかいない。なのに手を払った時から何一つ返せていない。嫌なところ、直してほしいところすら聞けずに。こんなわたくしは相応しくない。分かっている。あなたは自由に飛び立てる人。私は羽の使い方を忘れた籠の鳥。あなたを閉じ込めるべきではない。でも心が叫んでいる――あなたが欲しい」
 彼女を抱き締めていることに気付いたのは、そのぬくもりが肌に伝わってきたからだった。その感覚に呼応するように、後から意識が追い付いてくる。無意識に体が動いたのは鳥族の持つ力か、彼女の飾らぬありのままの想いを聞いたからか、その両方なのか。腕の中の彼女は微動だにせず抱擁を受け入れている。もしかしたら驚きに身が竦んでいるのかもしれなかった。
 必死の思いで気持ちを吐露してくれたセレナには申し訳ないが、どうしようもなく嬉しくてたまらなかった。彼女もまた、同じ気持ちを抱いていたことが。まっすぐにぶつけられる熱病のような恋情が。血潮が沸き立つような興奮が、全身を巡っていた。
「君は、僕が君のことをどれだけ愛しているか、本当には分かっていないんだよ。嫌なところも、直してほしいところもあるけれど、それすらも愛おしく思えるんだ」
 たとえ羽が汚れていても、そんな模様に見えてしまうような。恋は盲目とはよく言ったものだ、と苦笑する。でも理屈でなくそう思えてしまうのだから、もうどうしようもない。寂しがりなくせに意地っ張りだったり、見栄に囚われて言いたいことも言えずに一人で悩んでしまったり。直してほしい部分は数あれど、やはりそんな彼女が好きなのだ。
 彼女に投げ捨てられた指環をどうしても諦めきれず、人目を忍んで探しに来た折。足を滑らせ、その美しい手を泥だらけにしながら、必死に茂みを掻き分ける様子を目にした時。拾い上げた指輪に涙を落とし、震える手で胸の内に掻き抱いた小さく儚い姿を見たその瞬間。彼女の抱える様々なものをようやく理解し、この恋はもう一度始まったのだろう。
「これから、ゆっくり教えよう。僕が君のことをどれだけ好きなのかということを」
 彼女はその実知らないのだ。この胸に宿る熱情の炎の激しさを。
 腕の力を緩め、セレナと向き合う。腕の中の彼女は戸惑いに目を何度も瞬かせ、ベニスズメのように顔を赤くしている。そして彼女は、消え入りそうな小さな声でぽつりと呟いた。
「これ以上愛されてしまっては、わたくし死んでしまいませんこと……?」
 そんな彼女が愛らしくてたまらなくて、緩めた腕に再び力が籠る。少し身じろぎをしたかと思えば、恐る恐るといった様子で背中に回される華奢な腕。照れ隠しのようにぎゅっと強く押し付けられた頬。
 まだ暫く、離してあげられそうにはなさそうだ。