花の名は

その他俺の屍を越えてゆけ

「あそこに、梅の木を植えて欲しいの」

※某実況動画のファンアート的なサムシングです


 母は、美しい人だった。柔らかな目元と、どこか儚げな笑みが印象的な女性だ。
 華奢な手は白粉よりも薙刀を取り、ほっそりとした白い指は紅ではなく返り血に濡れていた。
 私の中での母は、一族を率いて戦場へ赴く当主の背中と、薙刀使いとして稽古を付ける師の印象が強い。普通の家族というものはよく分からないけれど、きっと母親とはこんなにも殺伐としたものではないのだろう。その名を継ぎ、三代目当主となるため私は教育を受け、そうなるものなのだと研鑽を重ね続けてきた。
 戦いに次ぐ戦い。私達はそれ以外に生きる術を知らなかったのだ。
 当主として戦果を挙げ続けてきた母であったが、呪われた運命までは討ち倒すことは敵わず、遂には病を患って床に伏してしまう。あれだけ強く大きく映っていた母の背は、一線を退いてからは弱く小さく見えた。その頃からだろうか。母が香を焚くようになったのは。
 鬼の巣から帰還した私を出迎える母の懐からは、仄かに甘い香りが漂っていた。今までにない匂いを纏う母は、戦場から退いてようやく一人の女としてささやかな楽しみを得られるようになったのだろうか。
 今までずっと当主として生きてきた母に起きたその変化は喜ばしく、そして少し羨ましかった。いつか私もそんな風に、戦い以外のことに何かを見出すことができるのだろうか。美人画に描かれる太夫のように怪しく妖艶に心を奪い、酩酊させるような芳しい香を感じながら、漠然と思う。それは、危うさを感じながらも惹かれずにはいられない、得体の知れない誘惑だった。
 病から立ち直っても、弱り切った体は命の灯を燃やすことは敵わず、秋もすっかりと深まった頃に母はひっそりとこの世を去った。それからの私は三代目当主としての矜持を以て生きてきた。母のように一族を率い、数多の戦場を駆け抜け、私の手は母と同じように胼胝たこができている。それは誇らしいことであり、それしか生き方を知らぬこの身が恨めしくもあった。私は母のようにはなれないのだと、香を焚きしめたり匂い袋を忍ばせるような風雅たる『人』らしい生き方はできないのだと、胸の奥が痛みを訴えていた。
 血潮に巡る呪いは、産まれたばかりの赤子が立ち上がるよりも早くこの身を朽ちさせる。大江山の雪原に真っ新な足跡を刻みながら、私はもう二度とこの地を踏むことはないのだろうと感じていた。
 それでも私は当主だ。そうありたいと願い、それに見合う生き方をしてきた。もう長くは保たないであろう身体を力の限り動かし続けた。その生き方に悔いはない。一族として初めて大江山に踏み入ることだってできた。それでも、時折私の鼻孔にはあの甘い香りの記憶が蘇るのだ。
 大江山から帰還したこの身は、いよいよ重く鈍ってしまった。分かっていたことではあったが、碌に動かなくなってしまった体で娘の稽古を付けていると、すぐ傍に死が迫っているのだということを感じる。瑞々しく柔らかな手は、やがて私と、そして母と同じように変わっていくのだろうか。
 寒さが一層激しくなると、身を起こすことすら儘ならなくなってしまった。布団に体を横たえ、一族の前で娘に次期当主を託す。目を閉じると、ふと、甘い香りが鼻孔を擽った。どこか懐かしく、それでいて強く心を惹く香り。それには覚えがある。晩年、母が漂わせていた匂いだ。
 その芳香は、私の懐から立ち上っていた。蕩けるような香りが、我が子を抱く母のように優しく私を包み込んでいる。戦いしかなかった私の生に、香を焚いたり匂い袋を忍ばせるような余裕はない。強い臭いは獣の嗅覚を刺激する。それは、余分なものを持つことを許された人間だけが得られるものだった。それなのに何故、この身は甘い香りを発しているのか。考えて、ああそうかと納得した。
 イツ花を呼び止め、一つの頼み事を託す。力強く頷いて、彼女はそれを了承してくれた。そのことに安堵して、深く息を吐いて再び瞑目すると、頭の芯をぼんやりと痺れさせるような香りは、一層強く私を包み込む。あの時母が纏っていたもの。同じものが、私を飲み込もうとしている。今際の際になって私はようやく『それ』を知った。母は、香など焚いていなかったのだと。


 あの世とこの世の境目まで来ると、沈丁花の香りがする。