ミス・フジマル

FGOベディぐだ

 夏の終わり、一通の手紙が届いた。真っ白で飾り気のない便箋に、几帳面な字が幾つも綴られている。読み終える頃、私は声を上げて泣いていた。蝉達が死に絶え、すっかりと静かになってしまった部屋に、自分の声がいやに大きく響いていたのを覚えている。
 人は、人生に於いて三度恋をするらしい。一度目は人として出会ったあなたに、二度目は英霊として剣を預けてくれたあなたに。三度目は一体誰に恋をするのだろうと、あなたがいない世界で私は思うのだ。

 好きだと伝えたのは私からだった。彼は眉を下げて錯覚だのなんだの私を諭してきたが、最終的には折れて私の気持ちを受け入れてくれた。彼と共に生きて死ぬことはできないし、限られた時間だけの泡沫のようなものだと分かっていたけれど、この気持ちを殺して生きることは考えられなかったのだ。若さ故の向こう見ずで一本気な心が為せたことなのかもしれないけれど、一度だってそれを後悔したことはない。与えられたその時間を、精一杯生きてやろうという思いしかなかった。蝉のような恋だった。
 関係性が変わっても、結局のところは世界の危機にあちこちへと飛び回り、恋人らしいことを出来た記憶はそう多くない。私達の関係は恋人である以前にサーヴァントとマスターであるのだ。戦いの最中は殆どが生きることに必死で、他のことを考えている余裕などない。戦いと戦いの間にある微かな間隙。その時だけは、何も考えずに恋人として笑っていた。
 彼は、人理を守るためにここにいる。その危機が去ってしまえば不要な存在だ。彼がそこにいる限り、戦いや危険は避けられない。言い換えれば、世界が危機に瀕している限り、彼はここにいられる。不思議なものだった。本来望むべき平和が訪れた時が、終焉であるということは。この時間がずっと続けばと願ったことがないと言えば嘘になるが、彼がそれを望んでないということは知っていたから、決してそれを口にはしなかった。身勝手な望みである。私一人の幸せのために人類に滅びろと願うようなものだ。でも、願うことくらいは許されたっていいと思うのだ。恋とは身勝手なものであるから。
 手を繋いだこともあまりない、キスはそれ以上に少ない。だが、その一切を全て思い出すことができる。彼との思い出はそれほどまでに鮮烈だった。閨のことをしたいのだと告げた時、理路整然と、しかし今までにないほどに強く窘められたことが記憶に残っている。今を生きる人ではなく、いずれは消える幻影でしかないのだと、彼は自らを語った。そんなことはとっくに知っている。知っているから求めるのだ。自分の中に消えない何かが欲しかったのと、彼に大事なものを差し出したい、そんな気持ちがあった。
 幾度も問答を繰り返し、ようやく彼が頷いてくれた時、その目に燃えていた瞋恚のような激しい焔の色が忘れられない。その時は、まるで彼が怒っているように思えて、少し怯えを抱いていた。それが彼の胸に秘められていた決意の色であったのではないか、ということに気付いたのは、彼がいなくなってからだった。きっと、彼は私が思う以上に煩悶を繰り返してきたのだろう。
 事を終え、体を抱き締める彼の腕は微かに震えていた。気付いてはいけないことのような気がして、私は眠った風を装って目を閉じていた。心臓は音が聞こえそうなほどに鼓動していたから、恐らく気付かれてはいたのだろうと思う。互いを慰めるようにただ、身を寄せ合っていた。

 人理を巡る旅を終え、それまでのことはまるで夢であったかのように日常へと回帰した。古今東西の英雄達と肩を並べて戦っていたなどと、言われても信じられるはずがないほどに、何事もない平穏な世界であった。幻だったと言われれば容易に信じてしまうだろうが、この胸が知った恋情は本物だ。
 何一つ残さず、彼は消えてしまった。他の英雄達からはともすれば聖遺物になってしまうような物を貰ったりもしたが、彼はそういった形に残るものを決して贈ろうとはしなかった。共に生き共に死ぬことができない存在だからこそ、何かを遺してはいけないのだと、サーヴァントは一時だけの存在で、人の世は人の物であるのだと、いつかに彼が言っていた。その思想通り、彼はその存在の残滓すら残さなかったのである。残ったものといえばかつて貰ったクッキーの詰め合わせの空き箱くらいなものである。特別でもない市販品のその箱を、私は後生大事に持つことになる。

「今朝、院長先生が亡くなりました。みんなで祈りを捧げましょう」
 風が冷たく、骨まで凍て付くような朝だった。とある国の片隅で、一人の老婆が眠りに就いた。年老いてなお矍鑠としていながらも、刻まれた皺の奥にある目はとても優しい色をしていたのだという。
 彼女は孤児院の経営者であった。孤児院でありながら農工業などを手がけて運営資金を賄い、卒院生の支援などにも通じていた、特殊な施設である。施設というよりも一つの村にほど近く、並の人物に工面できるような金額ではないのだという。それを興したのが、何の変哲もない生まれで突出した才がある訳でもない彼女であり、それは創設時からの謎なのだという。
 生涯独身を貫いた彼女は、神に身を捧げたとも、全ての子の母になったとも言われたが、彼女は笑ってそれを否定した。何故孤児院を作ったのかという問いに、彼女は『人の営みの環に入れなかったから、その営みを支援しようと思ったの』と告げたという。その言葉の意味を誰一人として理解はできなかったが、その時の彼女の瞳は、少女のようであったらしい。
 そんな彼女の日課は、すっかりと色褪せ、古びた缶箱に祈りを捧げることなのだそうだ。祈りというには少し違うが、何やら物思いに耽った様子で毎日その箱を見つめるのだという。一度興味本位で中を覗いた者がいたが、中に入っていたのは一枚の色褪せた紙片だったらしい。触れると崩れてしまいそうで、中を見ることはできなかったそうだが、見た目は特に変わった様子もない、何の変哲もない紙だったようだ。

『私のことは忘れてくださって構いません。貴女はどうか、過去の亡霊たる私に囚われず、今を生きる人間として、人の営みを続けてください。貴女がこれから歩む道が光溢れるものであることを願っています』
 忘れてもらって構わない、という部分に、彼らしさを垣間見た。構わないとは一見尊大な言葉に見えるかもしれないが、忘れるなと言う資格はなく、だが忘れられてしまうのは少し寂しい、といった気持ちが入り混じった言葉がこれなのだろう。絶対に、忘れてなどやらないというのに。
 恋をしようとした。人としての営みの環に入ろうと、彼以外の人を好きになろうとした。だが、どうしても駄目なのだ。彼でなくては。私があの箱を捨てることができないように、この心が彼を欲しているのだ。恋をして、愛を知り、子を生して次の世代へと枝葉が伸びるように種を繋いでいく。私はもう、それを彼としかしたくないのだと理解して、人の営みの環から外れてしまった。だからこそ、こうして人の営みの真似事を始めてみたのだけれど、彼は一体どう思うのだろうか。笑うだろうか。呆れるだろうか。そうして彼のことを考えては、たまらなく会いたくなるのだ。
 人は、人生に於いて三度恋をするらしい。一度目は人として出会ったあなたに、二度目は英霊として剣を預けてくれたあなたに。目を閉じて、今際の際に思い知る。ああ、それはきっと恋だったのだと。
 ──三度目は、あなたが残した思い出に。