モーニング・グローリー

FGOベディぐだ

 執事の朝は早い。
 なかなか起きない主人の部屋を訪い、揺り起こすことからその一日は始まる。
「マスター、朝です。起きてください」
 マスターと呼ばれた少女は掠れた呻きを漏らしながら身じろいだ。水底を漂っていた彼女の意識は、優しい手に導かれて緩やかに浮上していく。水面の淵を揺蕩いながら、肌に触れたひんやりとした心地よい感触を追いかけて頬をすり寄せる。両手で包み込んだそれは、冷たさを纏っていながらも仄かな温かさを感じた。何だろうこれは。覚醒しきらない頭で考える。固い面の先は、五方に分かれて広がっている。冷えたそれにうっすらと宿るぬくもりがとても気持ち良くて、このまま無意識の海を漂っていたい欲求に駆られたところで、少女は今自分が触れているそれが人の手なのではないかということに気が付いた。正確には、眩い輝きを放つ銀の義手ではないか、ということに。
 目を開ける。そこには見知ったいつもの顔があった。穏やかに目を細めた彼、ベディヴィエールはいつものようにおはようございますと朝の挨拶をする。こちらもいつものように挨拶を返しながら、少女は自らの手の中にあるものに視線を移した。
「髪がかかっていたので払ったのですが……すみません、冷たくて驚いたでしょう」
 引き戻された手に少し名残惜しさを感じながら、少女は首を振る。冷たさを感じたのは確かだったが、それは決して不快なものではなかったからだ。
「ううん。ベディの体温が少し残ってて、気持ちよかった」
 素直に思ったことを告げると、彼は少し目を瞠って、やはり穏やかに破顔した。
 ベディヴィエールは穏やかという言葉が本当に良く似合うと思う。物腰も、その言動も、常に柔らかい。深窓の令嬢を想起させる優美な所作は、自分と生まれる性別を間違えたのではとさえ思わせる。
「では、目覚めの紅茶を淹れてきます」
「うん」
 頷いて、退出するベディヴィエールの背中を見つめながら身を起こす。二度寝が恋しくない訳ではないが、その誘惑を振り切って洗面台に向かった。蛇口をひねると、飛沫を上げて水が出てくる。そこに手を浸して、ここにはないぬくもりを思い出す。おそろしいものを知ってしまった。少女は軽く頭を振って手の中に溜めた冷水で顔を洗い、寝覚めの余韻冷めやらぬ思考を明瞭にしていく。
 真白い魔術礼装に袖を通し、身の回りを片付け終えたところでドアがノックされる。返事をして入室を促すと、開いたドアからベディヴィエールが現れた。彼が紅茶を淹れている間に身支度を済ませ、一息吐いた頃に戻ってくる。それがすっかりと馴染んでしまった毎日の習慣だ。
 テーブルの上に置かれた紅茶からは、湯気と共に芳しい香りが立ち上ってくる。今までこういったものにはそれほど頓着していなかったのだが、舌に馴染んでくるとおおまかな種類の違いくらいは分かるようになった。使われる茶葉はその日の彼の気分なのか、それとも何か理由あってのことなのか、日によってまちまちである。ふわりと広がるベルガモットの香気を愉しみながら、髪に触れる指先を感じる。髪の一本一本に神経が集中していくような錯覚を抱きながら、少女は再びカップを傾ける。澄んだ琥珀色の水面には、丁寧に髪を梳るベディヴィエールの姿がある。やや伏せられた瞼から伸びる睫は長く、中性的な顔立ちと相まってまるで一枚の絵画のようだといつも思うのだ。
 今日も紅茶は優しい味がする。どう形容していいのか分からないのだが、ベディヴィエールが淹れる紅茶はとても落ち着く味がするのだ。以前、彼から淹れ方を教わったことがあったのだが、同じように淹れても何故か同じ味にはならなかった。練度の問題なのかもしれないが、他の人間が淹れた紅茶を飲んでも、彼の味にはならない。少女はそれが不思議でならなかった。もしかすると、彼の手は魔法の手なのかもしれない。さらさらと滑っていく自らの髪の感触と、それを整えていくベディヴィエール、温かな紅茶。朝の習慣となっているこの時間は、少女にとって何にも代えがたい安らぎの時であった。
「できましたよ、マスター」
 いつもの髪留めで髪を一房結い上げ、そう告げるとベディヴィエールはやわらかく微笑んだ。彼の笑顔には、人の心を和す力があると思う。彼が笑いかけてくれるだけで、少女の胸はとても温かくなるのだ。
「ありがとう、ベディ」
「はい。今日は特異点の報告もないようですがどうされますか?」
 少し前までは特異点の揺らぎを修正しに行ったりとレイシフトの機会が少し多かったのだが、今は収束し、落ち着いている。休養に充ててもいいかもしれないが、戦闘における力量向上を図っておくべきだろうか。いつ、何が起きるか分からない状況にいるのなら、やはりそれなりにやれることはやっておきたい。
「うーん、今日は修練場に行こうかな。みんなの力をもっとちゃんと引き出せるようにしなきゃ」
 そうと決めたら行動あるのみだ。カップに残った紅茶を飲み干し、少女は席を立った。それと同時にベディヴィエールが鮮やかな手付きでカップとソーサーを引き受けていく。
 こうして並び立つと、ベディヴィエールの背丈はとても高く、少女がいくら背伸びしようと到底届かない。こういう時、やはり彼は男性なのだと実感するのだ。一見、女性のようなたおやかさを感じさせるが、その鎧の下にある肉体は鍛え抜かれたものであることを少女は知っている。彼は騎士なのだから当然だ。
 だというのに、ベディヴィエールはまるで執事が如く少女の世話を焼く。そんなことはせずともよいと一度言ったことはあったが、自分がやりたくてやっていることだと返されてしまった。その上、少し寂しげな表情でもしかしてお嫌でしたか、などと聞かれてしまっては、罪悪感で胸が潰れるかと思ったものだ。
「私も、ご一緒してよいでしょうか」
 伺う声が降ってくる。答えはもちろん一つしかない。少女は彼と過ごす時間が嫌いではなかった。むしろ心待ちにしているくらいなのだ。返事を受け取ったベディヴィエールの顔が、花咲くように綻ぶ。その瞬間、少女の胸にぽっと小さな火が灯るのだ。あたたかくて、嬉しくて、ほんの少し切なくなる。名前を付けることをしてこなかった気持ちが、じわり、広がっていくのを感じた。
 少しずつ大きくなっていくそれがこの心を埋め尽くした時、名前を付けてそれが何であるかを認めなくてはならないのだろう。少女は漠然と思惟する。彼にこの想いを抱くことは、果たして許されることなのだろうかと。
 ──今はまだ、どうかこのまま。
 ちくりと刺すものを感じながら、少女は隣に立つ男を見上げる。綺麗な人だ、と思った。